◆◆◆◆◆
遥が集めたアイテム、そして事前に伝えたゲームクリアのアドバイス
――それらが功を奏し、魔王討伐の一行は驚くほど順調に魔王城へとたどり着いた。
本来ならば、ここから死闘が繰り広げられるはずだった。
だが――
「魔王の弱点は、左の小指だ」
遥の言葉通り、そこを狙ったコナリーの一撃が、魔王の運命を決定づけた。
「な……なぜ……この秘密を……!!」
魔王は驚愕に目を見開き、絶叫する。
彼の左手から、小指が転がり落ちる。
次の瞬間――
魔王の全身が、ゆっくりと石化し始めた。
「まさか、こんなあっさりと……」
討伐隊の面々が息をのむ中、コナリーは静かに剣を収めた。
彼の一閃によって、戦いはあまりにもあっけなく幕を閉じたのだ。
――だが、それがすべての終わりではなかった。
「魔王の左小指を落としたのは、私だ!」
沈黙を破ったのは、王子だった。
彼は堂々と剣を掲げ、自分が魔王を討ったと宣言する。
「……」
コナリーは表情を変えず、ただ王子を見つめた。
だが、その沈黙が、王子の苛立ちをさらに掻き立てた。
コナリーは、どの戦いにおいても誰よりも活躍していた。
その実力は明らかだった。
◆◆◆◆◆魔王が討伐された――その報せが王城に届いた。国中が歓喜に沸き立ち、祝祭の鐘が鳴り響く。王城の廊下では召使いたちが忙しなく駆け回り、兵士たちが誇らしげに戦勝を讃え合っていた。人々は皆、魔王の滅びを祝い、安堵していた。だが――その喧騒とは裏腹に、遥の部屋の中では静かな苦しみが続いていた。◇◇◇遥は、暗い部屋の中でひとり震えていた。戦いは終わったはずなのに、なぜまだ痛みが続くのか。「……くそ……どうして……」体中に広がる鋭い痛みが、遥を襲う。剣で斬られたような痛み、拳が砕けるような衝撃――それらが絶え間なく続き、遥はベッドの上で息を乱していた。「戦いは……終わったんだろ……?」苦しげな声が漏れる。それなのに、コナリーの傷は増えていく。彼は、まだ戦っている。遥は知らず、言葉に出していた。「……どうして……戦い続けるんだ……?」震える声で、遥は遠く離れたコナリーに問いかけた。「もう、いいだろ……戻ってこいよ……」魔王は討伐された。使命は果たされたはずだ。「……傷つくなよ……」何度も、何度も――
◆◆◆◆◆魔王討伐の一行が、ついに王城へ帰還した。街は歓喜に包まれ、人々は勇者たちを称える歓声を上げた。王城の大広間では、すでに祝勝の宴が始まっていた。大広間の中央――王子は誇らしげに立ち、魔王の小指を王へ捧げた。「陛下、これこそが、私が魔王を討伐した証です!」硬化を免れた魔王の小指。それを王の前に掲げた王子の姿は、どこまでも堂々としていた。「おお……!」王は感嘆の声を漏らし、貴族たちは口々に賞賛の言葉を述べた。「王子様こそ、この国の希望だ!」「素晴らしい……!」王子の名声は、一夜にして確固たるものとなった。そんな中、彼を支えた聖女として、ひとりの少女が王子の横に並び立つ。「魔王討伐において、私を支えてくれたのはこの聖女だ!」少女は頬を赤らめ、恥ずかしそうに微笑んだ。彼女の名が呼ばれるたび、人々の喝采は大きくなる。その光景を目の当たりにしながら、遥はある異変に気がついた。――コナリーがいない。どれだけ目を凝らしても、討伐隊の中に彼の姿はなかった。遥は、人々の間をかき分けるようにして王子のもとへ向かった。「王子……」
◆◆◆◆◆王城の門が見えたとき、コナリーはわずかに足を止めた。夜明けの空が白み始め、冷たい風が肌を撫でる。静かに門をくぐると、城内のざわめきが耳に入った。「……」彼は、ふらつきながらも前へ進んだ。剣を握っていた手は、すでに感覚がなかった。何度も魔王の亡骸を砕き続けた結果、骨は砕け、指は元の形を失っていた。――もう、剣を握れない。その現実を前に、コナリーは初めて戸惑った。これまでの人生、ただ戦い続けることしか知らなかった。王国一の騎士の息子として生まれ、強くあることだけを求められてきた。もし、それができなくなったら、自分は何者になるのだろう。「……どうすればいい」その答えを見つけられぬまま、コナリーは静かに俯いた。――だが、そのとき。「……コナリー!!」遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえる。コナリーが顔を上げた瞬間、遥が駆けてくるのが見えた。「コナリー……!!」彼は目を見開いた。遥の頬には涙が伝っていた。そのまま彼の前に飛び込み、強く抱きつく。「……!」コナリーの体が、僅かに揺れる。「もう大丈夫だから……」遥は震え
◆◆◆◆◆祝福の宴は、コナリーの登場によってざわめきに包まれた。王城の大広間に響いていた賑やかな笑い声は、静寂へと変わる。その場にいた誰もが、彼の姿を目にして息を呑んでいた。――特に、コナリーの歪んだ指先を見たときの反応は顕著だった。「……」手袋を外したコナリーの指は、かつての美しい形を失い、関節は不自然に曲がっていた。かつて王国一の騎士と称えられた男の手は、もはや剣を握ることはできない。それでも、コナリーは静かに王の前へと進み出ると、深々と膝をつく。「陛下。魔王討伐を完遂し、帰還いたしました」王は、彼の傷ついた姿を見下ろしながら、静かに頷いた。「……ご苦労であった」その一言で、この場に再び緊張が走る。「……」コナリーは、王の言葉を受けてもなお膝をついたまま、伏せたままの視線を上げなかった。そこへ――「よく無事に帰ってきたな、コナリー」王子が声をかける。王子の声は、一見すると穏やかだったが、遥には分かった。その声の裏には、明確な警戒心と苛立ちが滲んでいる。「……だが、一つだけ確認しておきたいことがある」王子はゆっくりと歩み寄ると、まるで問い詰めるような目でコナリーを見下ろした。「石化した魔王は、完全に砕いたのか?」その問いに、場が再び静まり返る。「……」コナリーは、一拍の間を置き、静かに答えた。「確かに、粉砕いたしました」淡々とした口調だった。「――ふん、本当にそうか?」王子は目を細め、疑いの色を露わにした。「男の聖女に会いたいばかりに、任務を中途半端にして帰ってきたのではないか?」「……」遥は、コナリーの拳がわずかに握られるのを見た。――王子は、コナリーの帰還そのものが信じられなかったのだ。彼の計画では、コナリーは狂戦士のまま魔王城に消えるはずだった。だが、彼は戻ってきた。そして――王子の脳裏には、一つの危機感が浮かんでいた。(もし、コナリーが「魔王の指を落としたのは自分だ」と証言したら――)(私の立場がなくなる。)それだけは、避けなければならなかった。王子は、目線を送る。部下たちが動き始めた。コナリーが「異常をきたした騎士」として、この場で斬り捨てられるように。「……」遥は、息を呑んだ。そして、彼はすぐにコナリーの横に立つ。「そんなにも知りたいのなら――」遥は、コナリー
◆◆◆◆◆「無礼者!!!」怒声が響き渡った。王子は目を吊り上げ、怒りに震えながら遥を睨みつけた。「この私に向かって、そのような口を利くとは……!」怒りのままに、王子は遥の頬を叩こうと手を振り上げる。だが――その前に、素早くコナリーが動いた。バッ!瞬時に立ち上がり、遥の前に立つと、王子の腕を鋭く掴んだ。「――っ!」コナリーの指先は、戦いの傷で歪んでいた。それでも、その力は人並み以上に強かった。王子の腕を握ると、ほんの一瞬だが、硬直した空気が場を支配した。王子の表情が、一瞬怯えたものへと変わる。コナリーは何も言わなかった。だが、その鋭い眼差しが、王子を威圧する。「……っ!」王子は、反射的に後退りした。「コナリー……貴様……」小さく震える声が漏れる。コナリーは、静かに手を離した。「王子殿下、私は貴方の忠実な騎士でした」「……!」「ですが――」コナリー
◆◆◆◆◆「お疲れ様です、遥さん。今日の収穫はどうでした?」王都の広場の片隅で、デイジーがにこやかに声をかけた。「まあまあってところかな。古文書に記されてた『星の雫』は見つからなかったけど、それっぽいものは手に入れた」遥は、腰のポーチから小さな瓶を取り出して見せる。――この世界には、まだ発見されていない貴重なアイテムが無数に眠っている。それらを探し出し、王へと報告することが、今の遥の仕事だった。「なるほど……でも、無理しすぎないでくださいね」デイジーは、優しい笑顔を浮かべると、手に持っていた包みを差し出した。「はい、今日のお昼です」「……相変わらず、律儀に用意してくるな」遥は苦笑しながら、サンドイッチの包みを受け取る。デイジーは、遥のお世話係として王から遣わされた青年だった。年はまだ若いが、料理が得意で、毎日しっかりと食事を用意してくれる。「仕事に夢中で食べ損ねるの、遥さんの悪い癖ですからね」「わかってるって。ありがとな」遥は包みをポーチにしまい、伸びをする。「よし、仕事も終わったし、そろそろ王城に戻るか」◇◇◇昼過ぎ、王城へと戻った遥はデイジーと別れて図書館に向かっていた。そして、大広
◆◆◆◆◆「このサンドイッチ、なかなか美味しいな」「そりゃあ、デイジーの手作りだからな。あいつ、料理の腕は確かだぞ」王城の薔薇園。遥とコナリーは、昼下がりの陽光の中で穏やかな時間を過ごしていた。ベンチに腰掛け、デイジーが用意したサンドイッチを頬張る。コナリーはゆっくりと味わいながら、静かに遥へと視線を向けた。「こうして食事をするのは、悪くないですね」「なんだよ、まるで俺と食事をするのが珍しいみたいな言い方だな」「実際、珍しいでしょう?」コナリーは僅かに微笑んだ。遥はバツが悪そうに視線をそらす。確かに、ずっと忙しさにかまけて、彼とゆっくり食事をする時間など取ってこなかった。だからこそ、今この時間は――「たまには、こういうのもいいかもな」遥は、コナリーの方を見ずにぼそっと呟いた。コナリーが穏やかに微笑み、何か言いかけたその時、不意に少し離れた場所から女性の声が響いた。「――お待ちください! ルイス様!」遥とコナリーは、同時にそちらへ目を向ける。沙織が、第二王子のルイスにつきまとっていた。「ルイス様、私は第一王子殿下と契約し魔王討伐をした聖女の沙織です! どうか、少しお話を――」「申し訳ないが、今は急いでいるんだ」ルイスは、明らかに迷惑そうな表情を浮かべている
◆◆◆◆◆「やあ、遥にコナリーじゃないか」軽やかな声が響いた。遥は、サンドイッチを手にしたまま顔を上げる。目の前に立っていたのは、第二王子・ルイスだった。◇◇◇遥とコナリーは、ベンチから立ち上がり、軽く一礼する。ルイスは、王子らしい品のある仕草で手を振ると、あずまやの中へと足を踏み入れた。「邪魔をして申し訳ない。でも、以前から遥さんと話したいと思っていたんだ」そう言って、にこやかに笑う。「でも、なかなか機会がなくてね。ようやく声をかけられてうれしいよ。私はルイスだ」差し出された手を見て、遥は少し戸惑った。――握手を求められるのは初めてだった。これまで、聖女として扱われることはあっても、対等な立場として認識されたことはなかったからだ。「……あんたは王子様なんだろ?」遥は、差し出された手を見つめながら、少し考えるように呟いた。「第一王子のアランとは……その、ずいぶん様子が違うな」そう言いながら、ゆっくりと握手を交わす。「兄が失礼なことをして申し訳なかった」ルイスは微笑みながら、さらりと言った。遥は、ぎくりとする。「あ……いや、謝らないでくれ。王子が頭を下げるようなことじゃない」慌てて手を
◆◆◆◆◆再び、記憶が動き出す。白の空間に色が流れ込み、空が、風が、大地が姿を変えていく。視界の中に現れたのは、かつて見た王都とは違う――静かで穏やかな街並みだった。人々の顔には笑みがあり、農地は実り、街には歌声が流れていた。「……これが、竜を倒した後の王国」遥の隣でアーシェがそっと頷く。「しばらくの間、すべてが平和だった。王国は潤い、民は笑い、王と聖女は並んで国を支えた……。直人の知識と、レオニスの誠実さが実を結んだ、輝きの時代だったよ」◇◇◇だが、ある日。空を吹き抜ける風が、突如として刃と化した。街を歩く人々を切り裂き、大地は亀裂を生み、幾人もの命を呑み込んでいった。「これは……何だ……?」レオニスは胸を押さえながら呻いた。魔力が制御できない。力が暴走している。王都では突発的な魔力災害が相次ぎ、人々は怯えて家に閉じこもった。「王が……あの優しかった王が……」人々のささやきは恐れと失望に満ち、やがて王宮を遠巻きにするようになる。直人は、毎日のように王の元に駆けつけた。「俺がもっと、早く気づいていれば……」
◆◆◆◆◆白い光が静かに薄れていく。 空間の端から輪郭がほどけ、淡い光の粒子が舞い始める。 次の記憶が立ち上がる、その刹那――遥はふと、直人が口にした祈りの言葉を思い出した。――光の加護に導かれし絆よ。この誓いに、真の繋がりを宿せ。痛みを半分に。願いを二重に。運命を一つに。(この言葉……)小さく口の中で繰り返すように呟いた瞬間、遥の背を冷たい感覚が走った。(……俺が、コナリーと契約したときの……あの呪文だ)教会の神殿で、あの時、手を取り合い、心を交わした記憶が蘇る。目を見開いた遥は、驚きと共に確信した。同じ言葉、同じ祈り。直人とレオニスが交わしたあの契約の言葉は、自分とコナリーを結びつけた“聖女契約”そのものだった。(まさか……これが、その“始まり”……?)歴史の起点。 この記憶の中にあるすべてが、やがて未来の制度や儀式として形を変えて伝わっていったのだと。「……これが、“聖女契約”の始まりなんだな」遥が思わずそう口にしたとき、彼の隣にふと気配が現れる。そこには、アーシェがいた。ぼんやりと浮かぶ記憶の光を見上げながら、彼は小さく頷いた。「……そうかもしれないね」
◆◆◆◆◆直人が召喚されてから、数週間が過ぎた。初めはただ呆然と立ち尽くしていた彼も、今では異世界の空気にすっかり馴染み、まるで住人のようにこの世界を歩いている。「……やっぱ、面白いな、こういうの」王都を見下ろす丘の上。風を受けて立つ直人の隣では、レオニス王が静かに腕を組んでいた。眼下には、拡張された畑。新たに掘られた用水路。人々が笑いながら働く姿があった。「直人。君の提案を受けて、農地の整備と用水路の延長工事は順調に進んでいる。王都の食料供給は大幅に安定し、農民たちの不満も沈静化した」「でしょ? それに、次は孤児院と病院。住みやすい国ってのは、そういうところから整えるもんだよ」にやりと笑う直人に、レオニスも微かに口元を緩める。ゲーム知識と現代の知恵、それを基にした直人の提案は、王国にとってまさに目から鱗だった。王族や教会関係者、さらには地方貴族までもが、最初は半信半疑で彼を見ていたが、結果を出し続けるうちに、否応なく認めざるを得なくなっていた。もちろん、そのすべてが順風満帆というわけではない。「“異邦の者が口を出しすぎだ”なんて声も、耳に入ってるよ」直人は軽く肩をすくめる。「だが、民の中には君を“聖女様”と呼ぶ者も出てきている。信頼は、確実に広がっている」「いや、あの称号はマジで慣れないって……」ぶつぶつ言いながらも、直人の顔にはどこか誇
◆◆◆◆◆異世界に召喚された青年は、柔らかな光の中で目を覚ました。足元に広がる幾何学模様の魔法陣。周囲を囲む異国の石造りの柱。高い天井には、見たことのない金属細工と文様が描かれていた。「……は? あれ、これって……」黒髪の青年は上体を起こし、天井を見上げたまま呆然とつぶやく。「この構図、テクスチャ素材、光源処理……完全に俺が設定したやつじゃん。え、うそだろ……?」彼の名は直人。ゲーム開発者――だった。「いや待て、ここ……俺のゲームの世界だよな……? あの未完成で納期ぶっちぎった『☆聖女は痛みを引き受けます☆』……マジで!?」直人は魔法陣の上から飛び退くように立ち上がり、視界をあちこち忙しなく動かす。召喚陣の周囲には、数名の僧衣をまとった教会関係者たちが固まっていた。 彼の漆黒の髪と瞳。その異質な姿に、一同は言葉を失っている。「黒髪に黒い瞳……まるで夜の呪いのようだ……」 「本当に、聖女なのか……?」ささやきが広がる中、その沈黙を破るように、一人の男が前へと進み出た。銀白の髪を風に揺らし、深紅の瞳をたたえた長身の男。 その威容はまさに“王”の風格を纏っていた。「下がっていろ。私が話す」堂々とした足取りで青年に近づいたその男は、静かに
◆◆◆◆◆白い光に包まれた遥の意識は、深い場所へと沈んでいく。ふと気づけば、そこには誰の気配もなく、音も色もない、静謐な白の空間が広がっていた。柔らかな空気に包まれながら、遥はぼんやりと立ち尽くす。「……ここは……どこだ?」思わずつぶやいた声は、不思議と反響もなく、空間に溶けていった。「記憶の中だよ。君と僕の、そして……もっと古い誰かの記憶」静かな声が後ろから届く。遥が振り返ると、そこに立っていたのはアーシェだった。白い空間のなかに銀の髪が揺れ、彼の赤い瞳だけがはっきりと色を帯びて見えた。「アーシェ……?」「うん、僕だよ。驚かせたならごめん」アーシェは柔らかく微笑み、静かに歩み寄ってくる。「この空間は、僕たちが繋がったときに広がる、記憶の断層のようなもの。君が“触れた”ことで、過去への道がひらかれた」「……過去って、誰の?」「僕の……そして、僕がかつて触れた“彼ら”の記憶」アーシェは、手のひらをゆっくりと空に向けて掲げた。すると、白い空間に金の粒子が舞い上がり、やがてふたつの人影が形を成していく。――それは、石像だった。王の石像は、背筋をまっすぐに伸ばし、鋭くも静かな眼差しで前を見つめている。威厳に満ちたその顔は、今にも動き出しそ
◆◆◆◆◆白い光に包まれた遥の身体は、重力を失ったようにふわりと浮かんでいた。耳鳴り。心臓の鼓動だけが、遠く、そして近くで響いている。どこまでも白く、静かで、何もない空間――そう思った瞬間、足元に確かな感触が戻ってきた。視界がゆっくりと色を取り戻し、遥は固い石の床に降り立っていた。(……ここは……?)ひび割れた柱。崩れかけた天井。冷たい空気と、どこか祈りのような静けさ。古い――それだけは、確かに感じられた。神殿のようでありながら、重く沈んだ哀しみが空間全体を覆っている。遥の視線が、ゆっくりと前方に向かう。その先に、ひとりの少年が膝をついていた。肩まで伸びる銀の髪。淡い光に照らされたその背は、今にも崩れそうなほど儚く見えた。腕の中には――灰色に変わり果てた、石と化した少年が、静かに抱かれていた。(……魔王、アーシェ……)遥は息を呑んだ。これまで指輪を通して感じていた気配。それが今、こうして目の前で呼吸をし、何かを見つめている。アーシェの顔は穏やかだった。けれどその表情には、耐えるような哀しみが滲んでいた。「……カイル……目を……覚まして……」
◆◆◆◆◆「……やっぱり鍵がかかってる」重厚な金属の扉の前で、遥が取っ手に手をかけて押してみた。微かな振動と共に、内部で何かががっちりと噛み合っている感触が伝わる。「見て。この装飾に仕掛けがある」ノエルが扉の中心にある幾何学模様を覗き込みながら、ぽつりと呟いた。「……思い出した。昔、一度だけ祖父に連れられてこの前まで来たことがある。中には入れてもらえなかったけど、祖父がこの扉を開けるのを、横で見てたんだ」懐かしむような声でそう言いながら、ノエルは小さく頷いた。「扉の仕掛けを解除するのに、少し時間をもらえる?」「危険はないのか?」すかさずルイスが問いかける。ノエルは微笑んだ。「大丈夫。祖父の動きを真似て何度も練習してたから」そう言うと、ノエルは工具袋を取り出し、しゃがみ込む。小さな金属ピンを差し込みながら、複雑な噛み合わせの中で音を拾っていく。「“記録できない歴史は、物に宿る”。祖父の口癖だった。ここには、そんなものが眠ってるんだと思う」ノエルの言葉を背に、遥は手にした革表紙の手帳を開いた。古代語と現代語が交互に記された記録。時折、簡素な図やスケッチが挿まれている。――“封印の地より搬出された石材、地下収蔵室にて保管中”――その記述に、遥の指先が止まる。「……あった。
◆◆◆◆◆散らばった書物を元の場所に戻しながら、遥たちは静かに片付けを進めていた。書棚の破片や埃を払いながら、遥はふと、棚の裏側に落ちていた一冊の手帳に目を留める。「……これ……?」革の表紙はひどく乾き、ところどころひび割れていた。留め具は壊れていたが、内部の紙は意外にも整っていた。遥が拾い上げると、傍にいたノエルが顔を上げた。「その手帳……見覚えがある……!」ノエルは急いで歩み寄り、手帳をそっと受け取った。「たしか……昔、亡くなった祖父に見せてもらったことがある。いたずらしようとして取り上げられて、それっきりだったけど……間違いない、これだよ」ページを開くと、中には現代語と古代語が入り混じった文字が並んでいた。筆跡は年代によって異なり、記録者が代々引き継いで書き残していたことがうかがえる。「これは……地図?」ノエルがページをめくると、中央の見開きにざらついた線画で描かれた地図が現れた。そこには、現在の地図と一致する部分も多かったが、詳細に描かれているのは王国の外縁――魔王領と呼ばれる地域だった。「ここ……✗印がついてる」遥が指を差した先には、森と山に囲まれた地点に赤黒いインクで大きなバツ印が描かれていた。その横には古代語で何かが書かれている。「“封印”……それと、&l
◆◆◆◆◆書物庫の扉が閉まると、重たい静寂が辺りを包み込んだ。天井まで届く書棚。革表紙の本、巻物、黄ばんだ羊皮紙。時の層のように積み上げられた記録の山が、誰の手にも触れられず、深い眠りについている。「このあたりは教会関係の記録が多かったと思う。封印とか、祭壇とか……君が言ってた単語に近いものがあるなら、この辺りかも」ノエルがランプを掲げ、慎重に棚の奥を覗き込んだ。「ありがとう。助かる」遥が蝋燭を手に、本の背表紙を指先でなぞる。どれも古びており、ひとつ動かすだけで崩れてしまいそうなほど脆い。ルイスは年代ごとに整えられた棚を端から順に確認しており、コナリーは床に広げた巻物を無言で見つめていた。それぞれが集中していた、その時――「……あれ、ちょっと待って、これ……」ノエルがふいに声を上げた。天井近くの棚に手を伸ばし、奥の書物を引き出そうとしたその瞬間。ギシッ軋む音とともに、積み上げられた棚の一角が不自然に傾いた。「遥、下がって!」「っ……!」ルイスとコナリーの叫びが重なるのと、ほぼ同時だった。崩れ落ちてくる束ねられた書物と木片。そのすべてが、遥の頭上へ降り注ごうとしていた――「危ない!」最も近くにいたノエルが、瞬時に遥の肩を強く引き寄せ